2016-01-09 01:50 | カテゴリ:クラシック音楽
さて、次は第弐拾四話 「最後のシ者」における『第9』です。
(この第24話で使われるBGMはベートーヴェンの『第9』の第4楽章だけなのです。)

この物語の中の使徒は、人類を脅かす異形の巨大生命体でしたが、物語後半になると、そもそもその設定自体を疑わざるを得なくなります。

前回述べた、第22話のハレルヤの使徒は「天使の羽」みたいな形をしていますし、第23話では「天使の輪っか」みたいな形です。そして24話では、最後のシ者は等身大の「美少年」の形をとって、ヒトとして人間側に潜入してきます。

「美少年」は、ベートーヴェンの『第9』の歓喜の歌を、鼻歌で得意げに奏でながら初登場するわけですが、これが主人公にクリーンヒット?

二人は友だちになり、主人公は触発されてポータブル音楽プレーヤーでさっそくベートーヴェンを聴き始めます。

さて、問題はここからです。
「美少年」は「最後のシ者」としての責務を全うすべく、ついに正体を表して主人公たちに敵対することになるのですが、この時に流れ始めるのが、ベートーヴェンの『第9』第4楽章「歓喜の歌」です。一度見ると軽いトラウマみたいなものが残る壮絶なシーンなのですが、アニメ名シーンの一つと言って良いでしょう。

さて、このシーン。『第9』が流れる映画は数あれど、『第9』が最も輝いているというか、本来の歌詞の世界観と、ベートーヴェンの音楽のヤバさ、エキセントリックさが浮き彫りになる効果があると思います。音楽が生きているのです。(個人的には、22話でハレルヤが流れた際に感じたような違和感は全く感じず、とても自然に、流れるべくして流れた音楽だと思います。鼻歌と音楽プレイヤーで予期されていたことも大きいのですが。)

まず、歌詞(シラーによるもの)が、そもそも仰々しいのです。以下和訳を抜粋。


歓喜よ、美しい神々の火花よ、楽園からの乙女よ、
我らは焔に酔いつつ、踏み入れる、あなたの聖なる神殿に!
あなたの魔力は、ふたたび結びつける、時の流れによって厳しく引き離されたものを。
全人類は同胞となる、あなたのやさしい翼が留まるところで!

座天使は神のもとにいまし

抱かれよ!千万の人々よ!この接吻を全世界に!
同胞よ、星空の上にこそ唯一の慈父は住み給うなり。



さて、こうした歌詞を映像化するのは、なんだかとっても難しい気がするのですが、
これを地で映像化してしまったのが旧劇場版25話26話にあたる『Air/まごころを、君に』ですね。まさにエキセントリックの極みです。

ですから『人類補完計画』の全貌をこの時点で知らない視聴者にとって、この24話での『第9』は、その後の展開へと向かう「予言」のようなものといえます。(ドイツ語の歌詞なので内容はつかめないとしても、ヤバさのエッセンスは伝わるでしょう。)
また、主人公が「最後のシ者」を止められなかった場合、その場ですぐさま歌詞のような状況がサードインパクトという悲惨な形で起こるところだったので、『第9』は「予期」だったといっても良いかもしれません。

主人公側にとって、マジヤバなピンチの時に、この『第9』は歓喜を叫ぶのです。
それが、まるで皆の悲願だとでも言うように。
潜在的に、登場人物たちが、渇望していたことを、露呈するように。
この「年末ですよ、皆さん、お疲れ様でした。よいお年(最後)を!」という雰囲気をまとった、『第9』を。

素晴らしい演出ではありませんか!

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』では状況は異なりますが、同じような感じでフォース・インパクトの儀式が始まり、この時も『第9』が流れるので、製作者側は確信的に演出しているのだと思われます。
しかし視聴者にとって、24話では格調高い予言または予期だった『第9』が、Qにおいては逆に過去の「フラッシュバック」として機能します。その、ギャグだかシリアスだか、あるいはそのどちらもか、判別しがたい演出となっているのは興味深いですね。

旧劇場版25話26話にあたる『Air/まごころを、君に』では、バッハの清らかで心地よいト長調の音楽『G線上のアリア』と『主よ人の望みよ喜びよ』が、非常に不快な映像の裏で流れます。笑

ここには、22話の『ハレルヤ』のような仕掛けや、24話の『第9』のような神演出を、個人的には感じ取ることはできません。何か別の意図によるものを感じます。
まるでそれはお手洗いの「電子水流音」のような誤魔化しだったり、閉店間近のデパートの「蛍の光」のような、購買意欲を削がせる空気感づくりに似ています。

そもそも、虚構であるあちらのアニメの世界に、こちらの現実世界のクラシックを流してしまうことは、一種の「打ち水」効果があります。

また映像とバッハの音楽のミスマッチさは、ある意味計算されたものと言えます。
バッハの音楽はそもそも、その偉大さ故に、BGMたり得ないのです。
世界のアニメ史に残ると言っていい、手描きで卓越した動きを魅せてくれる、この量産機との戦闘シーンにおいて、かっこいい戦闘曲ではなく『G線上のアリア』を流すことは、視聴者に映像へ没入することを阻害し、距離を置いて観ることを促します。また、視聴者は音楽によって潜在的に「この戦闘で燃えてはいけないようだ。この先はもう、いいことなんて無さそうだ」という心の準備を済ませることで、その後の凄惨な展開に対する免疫を獲得します(それでも「みんなのトラウマ」と称されるほど、衝撃は強いものですが)。

そんなこんなで、『新世紀エヴァンゲリオン』は映像においてのみならず、音楽においても非常に特殊な演出を行っており、クラシック音楽を決して「安易に」使っているワケではないというのが、僕個人の感想というか、印象です。

『新劇場版』ではそうした反省というか反動からか、鷺巣詩郎の音楽は基本的にコーラスをふんだんに使った圧倒的サウンドによる『擬似クラシック化形態』を取っており、逆にここぞというときはレトロなポピュラー音楽を使うという、まことにエヴァらしい、ぶっ飛んだ演出が見られます。

次回の記事は〈アニメ音楽〉にて、『新劇場版』の音楽について書いていきたいと思います。

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