2016-03-14 12:22 | カテゴリ:クラシック音楽

さて前編の続きです。

Bar「Radio&Records」の隅のソファー席のブース。男4人が向かい合い、西洋音楽史を見た時の、「自然倍音列」に沿った「和音の重積化」が、なぜ?どのようにして?起こったのか、その根拠の議論となりました。
(各人の身分、主張は、回想によって多少歪曲されていますが、悪意はありません。)

まず、前編の話を一通り終えた後、

「なぜ古い時代には「和音」がなく、ようやく近世になってやっとドミソ程度の単純なものだったのか?」

という議題が自然に持ち上がりました。

音響に詳しい作曲家肌の学生が、最初に言います。

 「当時の人間の、音の認知・処理能力が未発達だったからだ」

 「そういう主張も本に書いてある。」

別の作曲家の先生は、それは一理あるかもしれないと、ひとまず反論も賛成も飲みこむ。

しかし、演奏家肌の僕はひとまず同調せずに、この主張には真っ向から立ち向かわねばならない気がしたので、先輩として偉そうに噛み付いた。

 「それは、あまりに根拠に乏しい決めつけではないかね?」

僕は作曲において、モダンなイレブンス・コードを好むし、何よりラヴェルの和音やスクリャービンの「神秘和音」を好き好んで演奏する。しかし、だからといって、バッハやベートーヴェンの音楽を聴いて、弾いて「物足りない」と感じることはないからだ。
そこであえて、真っ向から対抗するアンチテーゼをぶつけることにした。

 「僕はむしろ、その逆だと思うね。…つまり、昔の人のほうが耳は鋭敏で、聴覚の認識能力も高かった。そのせいで、自然倍音もかなり意識的に聞こえていたのではないか?」

 「ドと鳴らしただけで、微弱ながらもドミソ♭シレ#ファラまで自然倍音が聞こえてしまう。そこにテンション・コード(音のいっぱいある和音のこと)を実際に鳴らすことなんて、不必要だったし、極めてうるさく感じるのではないか?」

…我ながら極端な反論だなと思ってしまったが、とりあえず場の話の指向性は均衡になり、冷静に各々が再び思索する。

僕は言う。

「現代人のほうが、むしろ自然倍音に対する認識力が下がっている。だから、実際にテンション・コードを鳴らしてくれなきゃ、満足できない身体になっているのでは?」

 「人間の脳と耳の基本レベルが変わっていないのに、自然倍音への認識力にここまで差が出てしまった要因とは?」

作曲の先生が言う。
 
 「社会だ。環境の変化だ。」

これには、一同頷く。
「現代人は雑音に囲まれすぎている。」
「人工音、電子製品の唸るモーター音…」
「静寂の中で耳を研ぎ澄ますなんて姿勢から、あまりにも遠ざかっている」
「そのあふれる雑音を脳で無意識にカットすることに、慣れすぎてしまったのではないか?」

最初の学生が言う。
 
 「大型ショッピングモールとか、酷いもんですよね。」

…「確かに」。一同頷く。

(僕はこの時、「音の三角コーナー」という言葉が頭に浮かんだが、そこは食事の席でもあったので口をつぐんだ。)

「昔に騒音がなかったということは無いだろう。ヨーロッパの都市では、石畳を走るウマの蹄鉄の鋭い音が、けっこうな苦情のもとでもあったらしいし。」

「現代音楽が音響的に、多くの耳にとって厳しくなったのは、第2次産業革命以降、電気が生まれ、都市化が進み、そしてガスタービンエンジンやジェットエンジンなど、ゆうに120db(120デシベル。人間が正気でいられる限界点)を突破する音が身近になってからだね。」

「…」

このようにして、音楽を人生の礎とする者達は、人類史と音楽史の符合を再認識し、これからの社会と音楽のありかたをそれぞれ考え、それ以上を言葉にすることなく、議論は終わった。


おわり。
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