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2016-03-15 05:10 | カテゴリ:クラシック音楽

このブログは自然倍音の話しかしないのか?

このブログ書きは、自然倍音フェチなのか?

…と思われても仕方ないくらい、自然倍音について触れてきた。

ただ、何度も、いろいろな面から触れて、ようやくたどり着ける話題というものもある。

今回はまさに、そういう話題だ。

スクリャービンの「神秘和音」と「自然倍音」の話。

Q1…「神秘和音」とは?

A1…スクリャービンが中期後半〜後期〜晩年の作品において多用した和音の一種のこと。
op.58〜64などは、曲中のほぼ全てが神秘和音(とその移置形、転回形)だけで書かれている。
(↓ドを根音とした時の神秘和音)
神秘和音

Q2…いつどうやってできた?

A2…本人は『交響曲第5番 プロメテウス-火の詩-op.60』で初めて意識的に使用したこの和音を、「プロメテ和音」などと呼んでいた。その和音について

「自然倍音から音を取り、4度関係で積み立てよ!」とスクリャービンが言った

…というのは昔からあちこちに書かれていることだが、実は神秘和音の構成音が「自然倍音に則っている」というのは、スクリャービン自身、音響学者からの指摘によって気付かされたことらしい。
つまり彼は、いつの間にか無意識的にこの和音を開発し、長い間、根拠もなく使い続けていたのだ。


さて、しつこいようだが、ここで自然倍音列を見てみよう。
自然倍音

何度もこの図を用いてきながら、ここで一つ重要なことを付け加えておくならば、この「自然倍音列」の音は、現代の平均律(一般的なピアノの調律法)の音とは微妙にズレがある、ということだ。特に、上の倍音では、実際のピアノの音よりわずかに低い音になる。

Q3…スクリャービンはピアノ曲が専門領域だったので、このズレには鈍感だったのか?

A3…どうも、そうではなかったようだ。「プロメテウス」はオーケストラ作品なので、ピアノと違って各楽器が微妙な音程を決められる。スクリャービンは、オーケストラのリハーサルの際、「ファ#の音程は少し低めにとってくれた方が透明感が増す気がする」みたいなことを言っていたらしいので、自然倍音に対する無意識的な志向は持っていたのだろう。

しかし、である。上の神秘和音と自然倍音列を見比べて欲しい。

何か重要な音が抜けている…そう、主音からの第5音「ソ」の音が、省かれているのだ。
ソは第3倍音、第6倍音、第12倍音と、何度も出てくる重要な自然倍音にも関わらず…である。

Q4…これはなぜか?

…これに対しての明快な解答は無いが、研究者の一般的な認識として「第5音は変位して増4度音になったから」というものがあるだろう。

どういうことかというと、中期(op.32〜57)作品においてスクリャービンは、後の「神秘和音」と同じ構成音の和音を、「属九第5音下方変位付加6」として使っていた。ドミソ[シ♭]レの第5音ソが下方変位してファ#になってしまったので、ソが消えたということである。

しかし、個人的には、

「ソが邪魔だったから」

という説を新たに主張したい。

…わかっていただけるか不安だが、ピアノで神秘和音を弾いてみると、ソは「弾かなくても聞こえる」のである。
根音の第3、第6倍音として、かなり明瞭に。

そこへあえてソを加えて弾いてみると、せっかくの「神秘和音」の透明さ、神聖さが、失われてしまうのである。


「聴音課題」に取り組んだことのある人は、もしかしたらこの「魔のソ」に苦しめられたことがあるかもしれない。
①先生がピアノで和音を弾いていく。
②生徒が、音だけで和音を判別し、楽譜に音符を書いていく。
③先生は「ドドミド」と和音を鳴らす。
④生徒は「ドドミソド」と書き取る。
⑤答え合わせでバツをつけられるが、生徒は「だって聞こえたもん」という。

…僕自身、よくこういう魔のソに苦しめられたし、音大の試験官も、きっとバツをつけるのがためらわれる案件だろう。

これを克服するには、逆に耳をふさいで、理論的に正解を導かなければならない。(聴音課題なのに)

…ということで、「ソが邪魔だった説」は、大いに理にかなっているのではないか?


(ここでスパっと終わりたいところだが、残念ながら最晩年の彼のビッグプロジェクト「神秘劇」の骨子では、「ソ」の音が加えられていた可能性が高いことを付け加えておく。あくまで「自然倍音列」にこだわりたかったのだろうか?「微分音」の使用も考慮に入れていたらしい。)
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2016-03-14 12:22 | カテゴリ:クラシック音楽

さて前編の続きです。

Bar「Radio&Records」の隅のソファー席のブース。男4人が向かい合い、西洋音楽史を見た時の、「自然倍音列」に沿った「和音の重積化」が、なぜ?どのようにして?起こったのか、その根拠の議論となりました。
(各人の身分、主張は、回想によって多少歪曲されていますが、悪意はありません。)

まず、前編の話を一通り終えた後、

「なぜ古い時代には「和音」がなく、ようやく近世になってやっとドミソ程度の単純なものだったのか?」

という議題が自然に持ち上がりました。

音響に詳しい作曲家肌の学生が、最初に言います。

 「当時の人間の、音の認知・処理能力が未発達だったからだ」

 「そういう主張も本に書いてある。」

別の作曲家の先生は、それは一理あるかもしれないと、ひとまず反論も賛成も飲みこむ。

しかし、演奏家肌の僕はひとまず同調せずに、この主張には真っ向から立ち向かわねばならない気がしたので、先輩として偉そうに噛み付いた。

 「それは、あまりに根拠に乏しい決めつけではないかね?」

僕は作曲において、モダンなイレブンス・コードを好むし、何よりラヴェルの和音やスクリャービンの「神秘和音」を好き好んで演奏する。しかし、だからといって、バッハやベートーヴェンの音楽を聴いて、弾いて「物足りない」と感じることはないからだ。
そこであえて、真っ向から対抗するアンチテーゼをぶつけることにした。

 「僕はむしろ、その逆だと思うね。…つまり、昔の人のほうが耳は鋭敏で、聴覚の認識能力も高かった。そのせいで、自然倍音もかなり意識的に聞こえていたのではないか?」

 「ドと鳴らしただけで、微弱ながらもドミソ♭シレ#ファラまで自然倍音が聞こえてしまう。そこにテンション・コード(音のいっぱいある和音のこと)を実際に鳴らすことなんて、不必要だったし、極めてうるさく感じるのではないか?」

…我ながら極端な反論だなと思ってしまったが、とりあえず場の話の指向性は均衡になり、冷静に各々が再び思索する。

僕は言う。

「現代人のほうが、むしろ自然倍音に対する認識力が下がっている。だから、実際にテンション・コードを鳴らしてくれなきゃ、満足できない身体になっているのでは?」

 「人間の脳と耳の基本レベルが変わっていないのに、自然倍音への認識力にここまで差が出てしまった要因とは?」

作曲の先生が言う。
 
 「社会だ。環境の変化だ。」

これには、一同頷く。
「現代人は雑音に囲まれすぎている。」
「人工音、電子製品の唸るモーター音…」
「静寂の中で耳を研ぎ澄ますなんて姿勢から、あまりにも遠ざかっている」
「そのあふれる雑音を脳で無意識にカットすることに、慣れすぎてしまったのではないか?」

最初の学生が言う。
 
 「大型ショッピングモールとか、酷いもんですよね。」

…「確かに」。一同頷く。

(僕はこの時、「音の三角コーナー」という言葉が頭に浮かんだが、そこは食事の席でもあったので口をつぐんだ。)

「昔に騒音がなかったということは無いだろう。ヨーロッパの都市では、石畳を走るウマの蹄鉄の鋭い音が、けっこうな苦情のもとでもあったらしいし。」

「現代音楽が音響的に、多くの耳にとって厳しくなったのは、第2次産業革命以降、電気が生まれ、都市化が進み、そしてガスタービンエンジンやジェットエンジンなど、ゆうに120db(120デシベル。人間が正気でいられる限界点)を突破する音が身近になってからだね。」

「…」

このようにして、音楽を人生の礎とする者達は、人類史と音楽史の符合を再認識し、これからの社会と音楽のありかたをそれぞれ考え、それ以上を言葉にすることなく、議論は終わった。


おわり。
2016-03-14 10:55 | カテゴリ:クラシック音楽
春が近づいてきましたね。
雪深く冬の長い地に住んでいる僕にとっては、とても特別な時期です。

このシーズンになると、決まって創作意欲に駆られ、作曲に没頭してしまうのでして、その結果ブログを3週間近く放置することになってしまいました。しかし意欲は失っていないつもりですので、今後ともよろしくお願いします。

さて今日は、先月の「音楽学のすすめ!」というイベントを終えた後の交流会、その中で生まれた面白い議論の話をしたいと思います。

Bar「Radio&Records」の隅のブースにて。僕と、イベントに来てくださった音楽に詳しい3名の男性(年齢層、専門ジャンルの異なる)が、2時間以上にわたり、酒を飲みながらあれやこれやとディープな音楽談義をしました。

その中の中心的なテーマは、「音楽史」と「世界史」の符合について。そのキーワードとして、「自然倍音」がありました。

「自然倍音」については、このブログでもこれまでに何度も触れています。
初出はコレ『天元突破グレンラガン』その音楽!〈自然倍音〉
です。(その後も何度か触れているので、「自然倍音」でブログ内検索してみてください。)

自然倍音

さて、おさらいですが、一番左端の音を、ピアノなりコントラバスなりでボーンと鳴らすと、実は鳴らしてないはずの高い音〈自然倍音〉が理論的に、物理的に無限に発生しており、その微弱な振動を人間は無意識的に聴いており、音の印象に加味している、ということです。

さて、ここで面白いのは、西洋音楽史におけるそれぞれの時代の楽音(曲に使われる、音符としての音)を、楽譜における垂直面で見た時、すなわち「和音」(ここでは、一度に鳴らされる楽音の意)を見た時、時代が下るにつれて「和音」は重積され、そしてその重なり方は「自然倍音列」と概ね一致する、という話です。

図を見ながら解説していきましょう。
「中世」。13世紀以前は、現在のように機能的に和音が用いられることはありませんでした。つまり、基本的に、単旋律で、「基音」のみでした。
しかしその単旋律が15世紀ルネサンス期に複旋律になると、その重なりによって「和音のようなもの」が生まれていました。といっても、上の図の「基音〜第4倍音」までの範囲。つまり、ドとソのせいぜい2種類の音くらいが、標準的な範囲でした。

それが17世紀のバロック音楽になると「基音〜第6倍音」まで、つまりドミソの3種類が標準になってきます。
こうなってくると、立派な和音感が出てきます。

そして18世紀〜19世紀半ば、古典の終わりのベートーヴェンや、ロマン派始めのショパンなんかでは、「基音〜第7倍音」まで、つまり「ドミソ♭シ(属七)」の和音、セブンス・コードなんかが標準的になってきます。

19世紀後半〜20世紀初頭では、「基音〜第9倍音」、「ドミソ♭シレ(属九)」の和音、ナインス・コード。

1910年頃には、「基音〜第11倍音」(「変位和音」やイレブンス)、「基音〜第13倍音」(スクリャービンの「神秘和音」)やラヴェルのサーティーンス・コードが揃い踏みとなるわけです。

そして此処から先はもはや怪奇の世界。第16〜20倍音ともなればそれは「それまでの楽音」を越え、シとドの半音やドとド#のさらに間の音、いわゆる「微分音」を用いたり、全ての鍵盤をグシャっと鳴らすような「トーンクラスター」という、いかにもな現代音楽の世界に突入します。

これらを前提に、この和音の重積化がなぜ、時代とともに進んだのか?という根拠の議論がメインテーマなのですが、ひとまず今回はこれにて。

…つづく。
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