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2016-02-19 20:17 | カテゴリ:美術

室内

前の記事で、ドグーヴさんの絵を紹介しました。

そして、その雰囲気を少しでも現実で感じてみたい衝動に駆られ、紙粘土でオブジェを作り、ネットで照明を注文し、ホームセンターで観葉植物を買ってきて、色々試してみました。

その結果が、上の画像です。

いかがでしょうか?

さすがに、間接光の柔らかな光と照明のデザインを詳細に捕らえることはiPhoneのカメラでは難しかったので、肉眼ではもっと雰囲気があるということを説明させて頂きます。

乳白色のシェードから透過する電球の光は、白壁に反射して、絶妙な「光のニュアンス」を投げかけます。

壁に映った光と影の、曖昧で怪しげなニュアンス。

ここには「暗示」があり、霊的世界の存在の様なものを感じさせます。
(筆者は科学主義で現実主義なので、スピリチュアリズムやオカルトとは距離を置いているのですが、芸術にはそうした価値観を乗り越えて訴えかける力があります。バッハの教会音楽を聴くときには僕は敬虔なる教徒になりますし、スクリャービンを聴くときは、退廃的な神秘主義者になります。)

さて、この室内空間に、どんな音楽が最もマッチしたか?

色々やってみた結果、やはり「象徴主義」の毛がある音楽でした。

それはスクリャービンの後期ピアノ作品であり、ラヴェルの『夜のガスパール』であり、ドビュッシーの前奏曲集の「雪の上の足跡」でした。

これらの特殊な音楽を聴くときには、特殊な空間と環境が必要だと感じました。

白色蛍光の明々としたシーリングライトの下では、こうした音楽の真髄は一瞬で逃げていきます。

つづく
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2016-02-18 23:55 | カテゴリ:美術

少しの間、記事の更新が滞っておりました。再開します。

さて、前回「象徴主義」について、導入としてヴェルレーヌの詩を抜粋しました。(ジャンルは「クラシック音楽」として。)

実は「象徴主義」芸術は、かなり長い時期と広い地域性を持つ芸術運動です。

その発端はさらに遡ってフランスの詩人ボードレールの詩集『悪の華』だとか、彼が影響を受けたゴーティエの詩だとか、アメリカのエドガー・アラン・ポーの小説だとか……でもまあ、19世紀前半と言っておけばおおよそ良いでしょう。

それは詩が切り拓いた新たな美観。そのインスピレーションは、言語の壁を越え、国境を越え、ジャンルを越えていきます。美術、演劇、音楽…と。

フランスのボードレール、ヴェルレーヌ、ランボー、マラルメらの詩を震源地として、象徴主義芸術はベルギー、イギリス、ドイツ、そして何よりロシアで20世紀始めに大きく花開きます。

そうした経緯から、象徴主義について、ここで解説しようとするのは非常に骨が折れるので、僕なりの視点から、象徴派の詩、象徴派の絵画、象徴派の音楽についての魅力を、気の向くままに語って行こうと思います。

まずは、手っ取り早くイメージの伝わる絵画から。

Degouve

この絵は全然有名ではありませんし、作者のドグーヴも、全然有名ではありません。
西洋美術についてまあまあ親しい自分でも、象徴主義についての論文を読んでいて初めて知りました。(一応、日本語Wikipediaの記事がありますので、興味ある方は是非。)

しかし筆者は去年、この絵をディスプレイ越しに見ただけですが、何年ぶりでしょうか。とても強い衝撃を受けました。この絵を見ていると、時間を忘れます。

感じる印象としては「聖性」と「邪悪」、「静謐」と「不穏」、「白」と「黒」、「光」と「影」、「秘匿」と「暴露」、「美しさ」と「歪さ」…など、「相反するものが融合している」というものでした。

ここには、前回の記事のヴェルレーヌの詩が思い起こされます。

心して言葉を選べ
「さだかなる」「さだかならぬ」と
うち交る灰いろの歌
何ものかこれにまさらん。

(前回書きませんでしたが、続きは、こうです。)

それというのも我々はニュアンスを望むから、
色彩ではない、ただニュアンスだけを!
ああ!ただニュアンスだけが
夢と夢を、フルートと角笛を調和させる!



いかがでしょうか?

この絵に通じる美観だと思います。

そして、もう一つのポイントは、絵に実際に描かれているのは室内空間と具体的なモノだけなのに、見る側には、それらとは全く違う「何ものか」が、ビシビシと伝わってくるという点です。

そしてそれは「抽象的」で、「主観的」な、「予感」や「暗示」に近いものだということです。

…つづく


2016-02-13 19:32 | カテゴリ:クラシック音楽

19世紀後半から20世紀初頭まで、音楽は「ロマン派」の時代という風に一般的に言われます。

初期ロマン派が、シューベルト、ショパン、シューマン…などなど。中期〜後期に、リスト、ワーグナー、ブラームス、チャイコフスキー…などなど。後期に、ラフマニノフ、スクリャービン、リヒャルト・シュトラウス…などなど。

しかし、文学においては既にロマン派は19世紀前半に一度廃れ、その後なんやかんやを経て「象徴派」という芸術運動になります。

「象徴派」は文学から生まれますが、絵画にも、音楽にも大きな影響を与え始めます。

しかし、「象徴派の作曲家」という言い方は、ほとんどされません。

なので、これからしばらく象徴派について考えていきましょう。
まずコチラの「象徴派」の理念となる詩を紹介します。

ヴェルレーヌ『詩法』堀口大学訳 より


音調を先ず第一に、そのゆえに「奇数脚」を好め
おぼろげに空気に溶けて
何ものもとどこおるなき。 

心して言葉を選べ
「さだかなる」「さだかならぬ」と
うち交る灰いろの歌
何ものかこれにまさらん。

2016-02-10 20:36 | カテゴリ:映画音楽

2009年。ニコラス・ケイジ主演。
よくある「地球滅亡モノ」に、ミステリーを混ぜたような感じ。

宇宙人に選ばれた地球人の息子を宇宙船へと送り出し、最後のシーンへ。

この時に流れるのがベートーヴェン作曲『交響曲第7番』の第2楽章だ。

地球に残された、助かるすべのない人々の、最期のとき。

主人公は老いた両親の元へ向かい、家族の絆を確かめながら滅びの時を「粛々と」待つ。

この「粛々と」という感じが、この曲によって表現される。

しかし劇中で流れ始めると、音楽がやたら物々しい。音楽の濃度に、映像の濃度が負けてる気がする。

最新のCGによって、地表が一瞬にして焼きつくされていくスケールの大きい映像で最期を締めくくるのだが、

「イマイチ」である。

印象と記憶には残るが、良い演出だとは思えなかった。
ベートーヴェンの第7番は、祝祭の音楽なのである。その第2楽章が暗くて粛々としているからといって、その部分だけ使うのは、いただけない。ベートーヴェンの短調は、常にその先の勝利の光を睨みつけながらの、一時的な苦難なのだ。

地球と運命を共にする、諦めきった人たちの慰めのためにあるのではない。

では、何の音楽が良かったか?
…そこまで言うのなら代案を出しなさいよ代案を。

と言われれば困るが、モーツァルトの『レクイエム』の「ラクリモーサ」あたりが内容的にも雰囲気的にも順当ではないだろうか。

もしそれではベタ過ぎる、というのであれば、プロコフィエフの『ヴァイオリン・ソナタ第1番』の第1楽章だろう。
あれは最も絶望的で悲痛な音楽だ。最期の家族愛のシーンには合わないかもしれないが、映画自体はSFものなので、問題あるまい。むしろ、色合い的には合っている気がする。

そしてそのほうが、視聴者的には、家族と離れ一人地球を去った息子の幸せを願える気がする。


2016-02-09 20:34 | カテゴリ:クラシック音楽

「半音階」と「全音音階」「減七」について触れてきました。

ここまできたら、あと一つ、触れなければなりません。

「オクタトニック」という、8音からなる音階です。

時計の文字盤では「正八角形」は描けないので、オクタトニックは辺の長さが2種類になります。

12時、1時、3時、4時、6時、7時、9時、10時という感じ。
つまり、半音間隔と全音間隔が交互に出てきます。

音名に表すと、

①ド・ド#・レ#・ミ・ファ#・ソ・ラ・シ♭
②ド#・レ・ミ・ファ・ソ・ソ#・ラ#・シ
③レ・レ#・ミ#・ファ#・ソ#・ラ・シ・ド

の三種類。
ロシアの作曲家がよく用いたもので、リムスキー=コルサコフのオペラや、スクリャービンの後期作品、ストラヴィンスキーの『ペトルーシュカ』やプロコフィエフ…などなど。

またオリヴィエ・メシアンは『我が音楽語法』において、M.T.L(移調の限られた旋法)第2番としてまとめています。

要するに、現代音楽的で、「怪しい旋法」。音の中心性も不安定です。

①〜③の8つの音は、「減七」の4つの音を2種類組み合わせた形とも言えるし、「半音階」の12音から、「減七」1種類を引き算した形、とも言えます。

「三全音」(増4度)を4種類含んでいます。

「減七」よりもさらに「どこでもドア」機能がパワーアップしていて、1つのオクタトニックで4つの調性にワープ可能ですが、たいていワープせず、オクタトニックという「異空間」をさまようことを目的にしています。

リムスキー=コルサコフのオペラでは、現実離れした異界のBGMとして。
またスクリャービンでは、「神秘性」そのものを描くため。

特にスクリャービンは、この「異空間」を、独自の羅針盤に沿って、つまり、独自の和声システムというルールに従って、神秘和音という異空間から異空間へとワープし続けます。

(詳しくは筆者の修士論文に書いたのですが、今ココでは簡単に説明できません。)

とにかく言いたいのは、歴史とともに「音階」は開発され、複雑化していったということです。

シェーンベルクをきっかけに、現代音楽作曲家は「半音階」の中から完全に均等に音を選び、旋律をつくることで、音の「中心性」という重力を打ち消しました。
「十二音技法」「セリエリズム」という手法です。

奇しくも、人間の目が地球から宇宙へと向かい、飛び出していく時期。

人類の歴史と音楽の動向は、リンクしているのかもしれません。
2016-02-08 20:03 | カテゴリ:アニメ音楽

「ヤマアラシのジレンマ」(Hedgehog's dilemma)。

ヤマアラシのような棘を、人間は心にもっている。お互いに理解し合おうと近寄れば近寄るほど、互いの棘で傷つけあってしまう。その距離感の困難さの上に、人間関係は成り立っている。

…というような哲学用語、心理学用語だったように記憶しています。

我々の実生活でも身近に存在するし、よく見聞きするジレンマの一つでしょう。

エヴァ旧TVシリーズでも、序盤にリツコの解説付きで紹介されるし、それは作品を通してのテーマに関する重要なキーワードでした。(視聴者は、まさかそのテーマが最終話や旧劇であんなに強調されるとは思いもしなかったでしょうが。)

秘密結社ゼーレは、そのジレンマもまた「人間の不完全性の証拠」であり、原罪であるとして、人間の存在を否定する立場にあります。

しかし人間はその棘という心の防壁を失うと、人間でなくなります。心の壁があるからこそ、自我を持ち自立することができるのです。傷つけ合うのも愛しあうのも、人間が生きるということで生まれるのです。
人間とは、かくも不器用で、アイすべき「けもの」なのです。

…というのが、旧エヴァの大まかなメッセージでしょう。

では、『新劇場版』はどうでしょうか?

やはり、変わっていないと思います。
ちゃんと健全に描かれています。さらに『新劇場版』では、手の触れ合いが、繊細に、美しく描かれています。

それは旧エヴァには見られなかったことです。旧エヴァはどこか殺伐としていて、手は「汚れ」の象徴のように描かれているフシがありました。

(漫画版(貞本エヴァ)では、手の触れ合いの尊さが強調されていますから、きっと『新劇場版』は、そこからの逆輸入でしょう)

また、「音楽」によって、テーマは強調されています。

『新劇場版』においても、旧エヴァのようにリツコが「ヤマアラシのジレンマ」を解説してくれます。
この時の音楽は、アレンジが加えられながら、度々登場します。

次に出てくるのは、シンジがネルフを飛び出し放浪するシーン。

そして次に、ヤシマ作戦後にシンジがレイを救出に向かい、手を取るシーン。
(このシーンと、直後の月の神秘性が、個人的にはお気に入りです。ピアノが良い味出してます。もちろん、月面“静かの海”で目覚める“彼”に至るまで。)

3度も現れるので、もはや『序』の隠れたテーマ曲と言って良いでしょう。

そして次はいつか?

『Q』でした。終盤。
壮大にアレンジされ、悲劇的でドラマティックなシーンとなっています。

ここでは、旧エヴァとは違い、二人は友達のまま別れを迎えます。

幸せを願い、最善を尽くそうとしたものの、裏目に出てしまった形。

「ヤマアラシのジレンマ」は、皮肉にも、人間をという生き物を輝かせる「悲劇」のための、大きな舞台装置なのです。



2016-02-08 15:41 | カテゴリ:未分類

ここのところの記事の内容が、急に数学の授業みたいにカチコチしてきたので、少し立ち止まって考えてみましょう。

「そもそも、音楽に数学を見出すことに、意味はあるのか?」

という問いです。
「意味があるのか?ないのか?」という問に対して、「ない」と答えることは無謀なことなので、何かしらの意味はある、としておきます。

もう少し具体的な問にしてみましょう。
「数学は、音楽の享受をより良くするのか?」

この問に対しては、筆者は「必ずしもそうではない」と答えます。

しかし、「数学は、音楽の享受をより深くするか?」

この問に対しては、筆者は「そうだ」と答えます。

「音楽」というものを「音の体系化」と捉えるならば、音楽と数学は切っても切れない縁にあります。

古代ギリシャの数学の巨人「ピタゴラス」は、数学の研究のかたわら、音の「協和音程」と「不協和音程」の違いを解き明かしました。2つの弦の長さが単純な「整数比」であるほど、音は協和するということです。

音楽は数学的な調和を持っているから美しいのです。

しかし、こんなことは知っていようがいまいが、耳で「協和」か「不協和」かは、直感的に理解できるのです。
音が空気の微細な振動であることを知らなくても、その波がサイン波なのかコサイン波であるかを知らなくとも、人間は直接、音の印象として聴き分けられます。

だからといって、音楽を単に「心地良い」「耳障り」「うまい」「へた」「テンション上がる」「悲しくなる」…といった簡単な言葉だけでは、音楽を理解し、語るのは難しくなります。

その音楽がどうやって出来ているのか、なぜ良いのか?という理解と、さらなる語らいのためには、「数学という言葉」を持っていた方が有利です。

音波の分析にも使われる「フーリエ変換」などで有名なフーリエの言葉に、こんなものがあります。

数学は、われわれの感覚の不完全さを補うため、またわれわれの生命の短さを補うために呼び起こされた、人間精神の力であるように思われる。

これを音楽に当てはめてみましょう。

音楽は、人間の感性に直接訴えるという尊いものではありますが、人間の感覚というものは不完全で、個人差があり、偏っているものです。
音楽は「普遍的であること」によって、価値が高まるというという側面もあります。
その「普遍性」の代表格として、「数学」があるのです。

数学の歴史は古く、そこから着実に、発見と発展が積み重ねられ、今では人類の最も大きな財産となっています。
あらゆる分野の学問が、数学の力を借りてさらなる進化を遂げています。

数学は音楽を囲い込む「鉄の牢」ではなく、音楽のさらなる進化の「土台」になり得ます。

その土台から、人間の感性はさらに飛躍し、花開くのです。

自分も数学に強い人間ではないので、これから少しずつ勉強していきたいと思います。

2016-02-07 13:10 | カテゴリ:クラシック音楽

前回まで、12音から音を抽出し、幾何学的な対称性を持つ、正十二角形、正六角形、正四角形を見てきました。

さて、ここで「対角線」を考えてみましょう。
対角線とは、四角形以上の図形において、2つ頂点を結ぶ線分のうち、図形の中心点を通るものですから、四角形なら2本、六角形なら3本、十二角形なら6本あります。

時計の文字盤で言うと、12と6、1と7、2と8……などですね。

12音で考えると、この「対角線」の関係にある音は、「三全音(=増4度または減5度)」といわれる音程関係にあります。

以前の記事
でも鍵として出てきました。
ドレミファソラシドの、シとファの関係です。これは特別です。

シ(低)→ド(高)は「短二度」の関係にありますが、ド(低)→シ(高)となると、「長七度」の関係に変わってしまいます。
シ(低)→レ(高)は「短三度」の関係にありますが、レ(低)→シ(高)となると、「長六度」の関係に変わってしまいます。
シ(低)→ミ(高)は「完全四度」の関係にありますが、ミ(低)→シ(高)となると、「完全五度」の関係に変わってしまいます。

と、2つの音程を入れ替えると、音程差と「周波数比」も変化してしまうのですが、シに対する他の11音のうち、対角線で結ばれるファだけ、つまり「三全音」(全音3つ間隔)にある音程は、ひっくり返しても三全音で、音程と周波数比が一定なのです。

その周波数比は、1:√2=1:1.41421356…という、整数比では表せない「無理数」です。
他の音程は「整数比」の関係にあるのに対し、三全音は「無比数」の関係にあります。

よって、この2音がもたらす響きは「不協和」で「不安定」ですが、お互いに吊り合ってしまっていることになります。

正十二角形、正六角形、正四角形からなる音階、和音は、一辺の長さと角の等しさの他に、この無理数の関係に支配されていることになります。

つづく…
2016-02-07 11:29 | カテゴリ:クラシック音楽

前回まで、ドレミファソラシドという音階に隠された「エラー」と、それがもたらす「中心性」を見てきました。

中心音(主音)が判別しやすいと、安心感があるということです。

では、完全に点対称、線対称な構造を持つ音階では、どうなるでしょうか?

・半音階
1オクターブ内の白鍵と黒鍵の音は、全12種類です。
時計の文字盤も12種類なので、それでイメージしてみてください。

オクターブ内の音を

ド・ド#・レ・レ#・ミ・ファ・ファ#・ソ・ソ#・ラ・ラ#・シ・ド

…と全部使うと、「半音階」と呼ばれるものになります。
正十二角形なので、辺の長さは全て均等、内角も一定で、点対称かつ線対称です。

その均等性のために、調性感は逆に失われます。「中心」となる一つの音がないのです。
幻想的であり、禍々しくグロテスクでもあります。
J.S.バッハの『半音階的幻想曲とフーガ』が典型例です。

・全音音階
次に、12音を2で割って、正六角形を考えてみましょう。
正十二角形が「半音階」だったのに対し、正六角形では「全音音階」となります。

時計の文字盤の偶数だけつないだものと、奇数だけつないだものの、2種類です。

音階でいうと、

①ド・レ・ミ・ファ#・ソ#・ラ#・シ#(=ド)の循環と
②ド#・レ#・ミ#(=ファ)・ソ・ラ・シ・ド#の循環

となります。

この音階もまた、全てが等しく、点対称かつ線対称です。
それゆえ、中心となる一つの音がありません。

そして幻想的である点では「半音階」と同じですが、グロテスクさは薄れています。
神秘的で、静的で、未来へワープするような音階です。
ドビュッシーの『前奏曲集第1巻』の第2曲「帆」がその典型例です。

・減7
さらに、12音を3で割りますと、正四角形が三種類できます。
時計の文字盤で言うと、「12・3・6・9」の様な感じです。

①ド・ミ♭・ファ#・ラ
②ド#・ミ・ソ・シ♭
③レ・ファ・ラ♭・シ

の三種類です。これもまた点対称かつ線対称です。

しかしこれはもはや音階ではなく、短三度を積み重ねた「減七の和音」として使われます。
左端と右端の音程が「減七度」をなす為に、こう呼ばれます。
前回までの記事で触れてきた「増4度」2種類(上の①の場合ドファ#とミ♭ラ)の重ね合わせであるため、厳しい響きを持っています。

ベートーヴェンや、ショパン以降とても良く使われ、転調をするための「どこでもドア」のような機能を持っています。
このドアによって、それまでの音楽から調性感を引き剥がし、別の調性へとワープできます。

次回は、さらに分割していきましょう。



2016-02-06 19:23 | カテゴリ:クラシック音楽

前回まで、主音倍音強度による和音の機能の違いについて述べてきました。
しかし、あの説では、最も大きな機能和声法の原則を説明していません。

ソシレ(V)のシ(導音)はなぜド(主音)に進行を限定されるのか。
ソシレファ(V7)のファ(第7音)は、なぜミに解決させられるのか?

いままでの倍音について少し忘れて、「実音」について見ていきましょう。

ハ長調(Cメジャー)で考えた時

①ドミソ(I)とラドミ(VI)、ミソシ(III)は、「トニック」圏の和音

②ファラド(IV)とレファラ(II)は「サブドミナント」圏の和音

③ソシレ(V)とシレファ(VII)は「ドミナント」圏の和音

です。機能和声法では、①トニック→②(サブドミナント)→③ドミナント→①トニック→ …

という和声の繰り返しが、大きな基本パターンです。

これを、古典的な7種類の「三和音」で考えると非常にややこしく、多くの初期学習者を悩ませます。

なので、同じ機能圏の和音同士を、三度間隔になるよう、それぞれくっつけて、後期ロマン派以降、もしくはジャズのような「拡大和音」としてまとめてしまいましょう。

①トニック圏…    ラド ミソ シ(Am9)
②サブドミナント圏… レファラド ミ(Dm9)
③ドミナント圏…   ソシ レファラ(G9)

これで、7種類の和音が3種類に圧縮されました。
さてここで、あえて上の音名を左上のラから、右方向に「縦読み」してみましょう。

ラレソドファシミラレソドファシミラ…(繰り返し)

となり、ラ→レ→ソ→ド…と、「四度上昇」の繰り返し(=「五度下降」の繰り返し)であることが分かります。
しかしここで、一つだけ「間違い」があります。ファ→シ(=シ→ファ)は「増4度(=減5度)」であるということです。
本来、ファからシ♭に行かなければならないのです。

この増4度の音程は、独特の緊張感を持った「エラー」のように聞こえます。
しかし、このエラーのおかげで、「四度上昇」の繰り返し(=「五度下降」の繰り返し)は、中心性を持った7音の円環が完成します。
もしこのエラーが無ければ、#や♭のついた音まで出てきてしまい、12音全てが均等に出尽くしてしまいます。

そしてそこは「中心性」のない、虚空の世界です。(20世紀のはじめ、シェーンベルクさんをきっかけに、多くの作曲家がこの虚空に飛び出していきました。)

しかし、音楽を安心して聴いていたい、重力のある地球で暮らしたい、という一般的な方にとっては、中心音というものが必要です。
風で持ち上げられた木の葉が宇宙まで行くことはありません。地に落ちなければならないのです。
水蒸気は熱せられますが、そのまま熱せられプラズマ化して水素になって宇宙に昇っていくのではありません。上空で冷やされて水や氷になって、低いところへ落ちていきます。
励起状態の原子は、基底状態へと戻ります。

音楽においても、エラーの出現頻度と、それを正そうとする機能が、全体に「ゆらぎ」と「中心性」の「調和」をもたらします。
人間社会の多様性と進歩のようなものですね。

(このエラーは、あくまで古典的な機能和声法の中での話です。後の時代、近現代、特にスクリャービンの後期作品では、機能和声法から完全に離脱しており、曲の最初から最後までこの「エラー音」に満ちています。そればかりか、そのエラーを厳格な別の和声システムに従わせています。そのせいか、多くの人が彼の音楽に「宇宙空間」と「非社会性」を想起させます。)

…というわけで、少し回り道しましたが、今回の論証は前回までの「科学的根拠」に基づくものではないので、ここであえて「観念的に科学的な」例を出してみました。

話を戻すと、ドレミファソラシドの、4度(or5度)で「秩序」付けられた音階には、増4度(=減5度)という「エラー」を含んでいること。そしてシ♭がシ♮に改変されていること。
その特殊な「励起状態」は、最小のエネルギー放出で「安定状態」に至ること…つまり、増4度という励起状態を、最小の「半音」移動によって協和音に解消することが大事なのです。

無限性を持ちかねない音組織に、あえて有限性とエラーを与えることで、中心性と調和が生まれるのです。


音階も同じで、エッシャーの有名な「滝」の絵のように、実は作り物のマヤカシだとしても、綺麗な循環を作ることが大事なのです。始まりと終わりに段差をもたらすことで、解決感と円環を同時に産んでいるのです。

エッシャー『滝』


(筆者自身の感覚として、導音→主音の力学というのは、実証することのできない「見せかけの力」だと思っています。
例として、人は「遠心力」という言葉をよく使いますし、実生活でもその力を体験しますが、「遠心力」という力は本来存在しないものです。物体の運動時に掛かる「慣性の力」が、円運動では「外側に」働くだけなのです。それと同じことが、導音→主音にも言える気がするのです。)

2016-02-06 12:30 | カテゴリ:クラシック音楽
2016西区文化フェスタ

札幌市西区役所主催の、文化振興イベント「西区文化フェスタ2016」。
2/24(水)の19〜21時までお時間を頂き、音楽の講演をさせていただきます。

「音楽学」という、あまり有名じゃない研究界の存在を、まず市民の方々に少しでも知って頂き、「音楽を学問する」というアプローチを獲得することで、いかに音楽をより深く楽しめるか?ということをアピールする内容です。

音を縦軸で見たときの「空間的な音組織」、大きな横軸で見た時の「時間的な構成」、そしてその質を決定づける「作曲家の意志」という3つの観点から、音楽を分析する感覚をプレゼンテーションします。

入場は無料。

場所は地下鉄琴似駅B2F「ターミナルプラザことにパトス」です。

堅苦しくなく、知的好奇心そそる時間にしたいと思います。
2016-02-05 23:23 | カテゴリ:クラシック音楽

これまで、ハ長調のドミソ(I)・ファラド(IV)・ソシレ(V)・ラドミ(VI)の和音について、それらに含まれるド(主音)の倍音の強さを見てきました。

残りはレファラ(II)とミソシ(III)、シレファ(VII)になります。短三和音と減三和音です。

レファラ(II)は、ソシレの前に出てくる子分みたいな和音です。
レファラは短三和音ですが、ファが中程度の主音倍音を持ち、レもわずかながら主音倍音を含んでいます。

ミソシ(III)は、出現頻度が低い和音です。VIの子分みたいなものです。
ミソシは、どの音の自然倍音にもドがありません。

シレファ(VII)は、最も出現頻度が低く、ソシレファ(V7)の根音省略形のような、副産物と言ってよいでしょう。ファが中程度の主音倍音、レもわずかながら主音倍音を含んでいます。
他の和音と違い、シファという減五度音程を持ち、極めて不安定です。

さて、以上でハ長調の中の主要な三和音が全て出揃いましたので、その主音倍音強度を序列にしてみましょう。

ファラド(VI)>ドミソ(I)=ラドミ(VI)>レファラ(II)=シレファ(VII)>ソシレ(V)>ミソシ(III)

(属七やII7の和音が加われば、序列はまた変わってきますが、今回は三和音のみとします。)

ここから、頻出する和音記号に絞って、主音倍音強度の程度に書き換えます。

IV(強)> I(中) = VI(中) > II(弱) >V(極弱)

こうしてみると、主音倍音の強度が、機能別になっていることがわかります。

トニック( I&VI )が「中程度」。
サブドミナント(IV)が「強」。
ドミナント(V)とそこに至るIIが「弱」。

つまり、性格と機能の異なる和声の交代による音楽の「ゆらぎ」は、無意識的に、主音倍音の強度を聴いている事によって、もたらされているのではないでしょうか?

(こうした説を、私はまだ本で読んだり、人から聞いたことは無いのですが、誰かしらが何かしら別の言い方をしているかもしれません。)

さて、ココで例として、バロック時代の有名な作品、パッヘルベル作曲の「カノン」のコード進行を、この主音倍音強度の点から見てみましょう。

コード名とニ長調(Dメジャー)の和声
【D( I )→ A(V) →Bm(VI) → F#m(III) →G(IV) → D( I ) → G(IV) → A( V )】この繰り返し

【中 → 極弱 → 中 → 極弱 → 強 → 中 → 強 → 極弱】この繰り返し

この「カノンコード」は、4度下がるベースラインのシークエンスがとても美しく普遍性があるため、現在のポピュラー音楽にも多用されています。

それに加えて、主音倍音強度もまた、メリハリの効いた「ゆらぎ」を持っていることが分かります。
またそれは、ベースラインの上下と、拍の強弱に沿う形になっています。

もちろん、こうした倍音の強さは、実際には人々が聞こえるか聞こえないかの微妙なレベルの中での話なのですが、アコースティック楽器によって生で演奏されるクラシック音楽の良さ、その「宝石」は、もしかしたらこの領域に詰まっているのかもしれません。

おわり。



2016-02-04 21:13 | カテゴリ:クラシック音楽

前回まで、ハ長調の和音ドミソ、ファラド、ソシレそれぞれの倍音強度から、性格と機能の違いを見てきました。

そこで変終止、全終止を述べたので、今後は「偽終止」です。

偽終止とは、ハ長調において、ソシレ(V)の和音の後に、ラドミ(VI)の和音が続くことで起こる、偽モノ感ただよう終止です。これは世界的にも共通の感覚らしく、「思わず眉を上げてしまう和音」と言われます。

どっこいしょとイスに腰をかけて脚は楽になったものの、座面が傾いていてイマイチ落ち着かない、という不安定な感覚です。

ソシレ(V)からドミソ(I)に解決する全終止では、とっても安心感があります。ホッとできます。

では、ドミソ(I)に対するラドミ(VI)の違いは何でしょうか?

主音ドと、主和音の中のミが共通しているので、それがある程度ホッとする要因となります。
違和感は、ソかラかの違いになります。

短調はなぜ暗いか?−自然倍音列と音階−
で過去に述べましたが、長三和音ドミソが、ドの自然倍音に沿った明るい和音であるのに対し、短三和音ラドミは暗い和音ということになります。そしてラもミも、主音倍音を含みません。つまり、ドを含んでいるので主音倍音強度はまあまああるのですが、響きとしてマットなのです。これが偽終止の違和感の要因の一つです。


ハ長調(Cメジャー)では、
全終止は
ソシレ(長三和音)→ドミソ(長三和音)
偽終止では
ソシレ(長三和音)→ラドミ(短三和音)

となり、反対にハ短調(Cマイナー)では、
全終止は
ソシレ(長三和音)→ド・ミ♭・ソ(短三和音)
偽終止では
ソシレ(長三和音)→ラ♭・ド・ミ♭(長三和音)

となります。
短調では完全終止の主和音のほうが暗く、偽終止のVIの和音の方が明るい、しかも主音倍音強度もラ♭の分、わずかに強くなっています。

このように、IとVIの和音は似ているようで、よくよく見れば対照的になっていると言えます。

次回は、主音倍音強度と機能和声法という言語についてです。

…つづく

2016-02-04 05:07 | カテゴリ:クラシック音楽

前回、ハ長調におけるドミソ(I)とファラド(IV)の主音倍音強度の違いを説明しました。

それでは次に、ソシレ(V)の和音について考えましょう。

まず、根音ソ。この音の自然倍音列には、ハ長調の主音「ド」が登場しません。
次に第3音シ。これにも同じく登場しません。
そして第5音レ。これは第7倍音としてドに近い音が登場しますが、ほとんど弱くて聞こえません。

つまり、ソシレ(V)のハ長調における主音倍音強度は、かなり低いのです。
ここまでわかったことを、おさらいしておきましょう。

ハ長調の長三和音における、主音倍音強度は

主和音ドミソ(I)を基準とした時、ファラド(IV)はより大きく
ソシレ(V)はかなり小さい

となります。

ソシレもファラドも同じ長三和音です。
また主和音ドミソに対して、ソシレは「上に」完全五度の関係にあり、ファラドは「下に」完全五度の関係にあります。
もしくは主和音ドミソに対して、ソシレは「下に」完全四度の関係にあり、ファラドは「上に」完全四度の関係にあります。

このように、ファラドとソシレは、ドミソに対して「対称的」な位置関係ですが、その主音倍音強度は「対照的」と言えます。

ドミソ(I)→ ドファラ(IV) → ドミソ(I) という変終止(通称:アーメン終止)は、ミソ→ファラ→ミソという音程上のアーチ構造の他に、主音倍音強度においても、「中→強→中」というアーチ構造を持っていると言えます。

一方、ドミソ(I)→ シレソ(V) → ドミソ(I)という全終止(いわゆる起立・礼・着席)は、ドミ→シレ→ドミという音程上の逆アーチ構造の他に、主音倍音強度においても、「中→極小→中」※という逆アーチ構造を持っていると言えます。

この主音倍音の極端な現象が、「帰りたい」「戻して欲しい」感をVの和音に付与している可能性があります。
それは、一般的に言う「導音→主音」の力学より強いのかもしれません。

※演奏上のセオリーとしては、ソシレ(V)はドミナント和音なので緊張させ、カデンツにおいてドミソ(I)よりも強く鳴らし、その後のドミソ(I)は解決感を出すためにより弱く、というのがあります。


ファラドとソシレは、同じ長三和音でありながら、ハ長調における機能は大きく異ることが分かりますね。


次回は、その他の和音について見ていきましょう。

つづく…
2016-02-04 04:24 | カテゴリ:クラシック音楽

前回は、単音における主音の倍音の強度の話をしました。

では今度は、ハ長調における三和音(ドミソ/レファラ/ミソシ/ファラド/ソシレ/ラドミ/シレファ)のうち、大きく分けて三つの機能を持つ重要なもの

ドミソ( I )      …〈トニック〉

ファラド( IV )    …〈サブドミナント〉

ソシレ( V )     …〈ドミナント〉

について見ていきましょう。

まず、ハ長調の「主音」はドで、「主和音(I=トニック)」はドミソです。

以前の記事
短調はなぜ暗いか
でも述べましたが、ドミソは主音ドの自然倍音列に則した、自然でクリアな和音です。

なので、「主音ド」が最も自然に響く和音とも言えます。だから、「主和音」なのです。
しかし、ミとソそれぞれの自然倍音には、「ド」が出てきません。
なので、「ド」の倍音は、主音ドの上にしか登場しません。

ファラド(IV)はどうでしょうか?
まず、前回の記事
なぜIVは「出かけたい」和音で、Vは「帰りたい」和音なのか?…和音の性格と倍音強度(2)
でも述べたとおり、ファラドのうち、ファ自体が、まず「ド」の強い自然倍音を含んでいます。
ラは「ド」の自然倍音を含んでいませんが、ファラドのドは主音として実際に鳴らされ、しかも当然「ド」の自然倍音を含んでいます。

つまり、主和音ドミソよりも、ファラドのほうが、倍音としての「ド」が強いと言えるのです。

この倍音の強度によって、同じ長三和音なのに、「ドミソ(I)よりファラド(IV)のほうが明るい」「IよりもIVの方が、どこかに出かけたい気分を持っている」という感覚を引き起こすのではないか?

という、感覚と理論をつむぐ、いちおう整合性のある説明と言えるのではないでしょうか。

次回は、ドミナント機能のソシレ(V)と、その他の和音について見ていきましょう。

…つづく
2016-02-04 03:55 | カテゴリ:クラシック音楽

自然倍音については、過去記事
短調はなぜ暗いか?自然倍音列と音階
をご参照ください。

自然倍音

さて、もし次のような実験に興味があるなら、是非やってみてほしい。

アコースティックピアノ(グランドでも、アップライトでも可)の鍵盤の上の、ドの音を、音を鳴らさないように4つ押さえる(左手小指、左手親指、右手親指、右手小指の4オクターブ)。

その状態で、左手小指の、一番低いドを、少し強めに短く鳴らしてみて欲しい。

すると、音なく押さえていた鍵盤の音のうち、左手親指のドの音が倍音によって強く共鳴しているのが聞こえるだろう。

さて、もう一度同じように音なく押さえて、一番低い音(左手小指)を、今度はドではなく、隣のレの音で試してみて欲しい。同じように、その隣のミでも。

……ドの時に感じられた倍音の共鳴は、ほとんど感じられないはず。

しかし、次にファでやってみると、驚かれると思います。

共鳴が強く感じられるはずです。しかも、ドの時より高い音、右手の親指の音で。

左手小指がドの時とファの時を比べてみてください。

このドとファの共通点と、違いは何でしょうか?

ドを鳴らした時、基音と同じ音名が、第2倍音に1オクターブ上の音としてすぐさま出てきます。

自然倍音

ファを基音として鳴らした時、第2倍音はその1オクターブ上のファ、そして第3倍音は、さらにその完全5度上の「ド」の音として出てくるので、先ほどのような共鳴が起こったのです。

この仕組から言うと、ハ長調の音階における単音において、ドとファは共通して、強い「ド」の倍音を持っているということが言えます。

今回は単音の話でしたが、それが三和音になるとどうでしょうか?

…つづく
2016-02-04 03:18 | カテゴリ:クラシック音楽

クラシック音楽を学ぶ者にとって、一つ大事な感覚を身につける必要が出てくる。

「和声感」の習得というやつだ。

正確に言えば、18〜19世紀の西洋芸術音楽における「機能和声法」という和音のルールにおける、カデンツや、各和声それぞれが持つ性格や、指向性のパターンというものの常識を会得しなければならない、ということだ。

いくら「エリーゼのために」や「幻想即興曲」をゴリゴリ大音量で速弾きし、クラスの皆を驚かすことができたとしても、「和声感」の情緒なしには、クラシック音楽を演奏していることにはならない。

しかし、この「和声感」。とても厄介なモノなのだ。

感覚的に、表現できてしまう人がいる。
一方で、感覚的に、どうしても把握できない人もいる。

また、感覚的にできたとしても、理論が把握できない人がいる。
一方で、理論的には把握できていても、感覚的に表現できない人がいる。

そして先生が教える方法としては、「おおざっぱに感覚的に訴える方法」と「正確に無味乾燥な記号として示す方法」という、両極端なものに限られてくる。記号を教えるのは、大きくなってからでないと難しい。

低学年に和声感を教える時の、一般的で感覚的な説明は、こうだ。

「この和音、とっても〈どこか出かけたい〉ってキラキラするような気分の和音だよね」
「そういう気分で弾いてみよう!」

「こっちの和音は、〈もう疲れたから、家に帰りたい〉って感じの和音だよね」
「そういう気分で弾いてみよう!」

「この和音は、家に帰ってきて〈ほっ〉とした和音だよね」
「そういう気分で弾いてみよう!」

…いかがだろうか?
少しニュアンスが違うかも知れないが、どこかで聞いたことあると思う。

ある程度、素養のある子なら、この説明で充分だ。

しかし、そんな子はむしろ少数。
多くの先生は、「弾くときの気分だけ変わっていて、音の表現に何ら反映されないじゃないか」という子のパターンに遭遇するだろう。

ここからたいてい、先生のイライラが募り始め、具体的な指導に切り替えるも、全然うまく伝わらず、さらにイライラし始める。
生徒も、何のドコを一体どうすれば良いのか分からなくなり、途方に暮れる。

低学年ならそれでも楽しくて、曲も平易なので良いかもしれないが、良い年齢になってくると、その訳のわからなさがイヤになり、クラシック音楽に嫌気が差し、受験勉強とともにピアノから離れていく、というパターンが出来上がる。

筆者自身も、中高生時代、課題曲が複雑なものになり、転調が頻繁に出てくるようになると、先生から「和声感がない」と注意されていたものだ。

感覚と理論を結びつけるような、有効な良い説明が無いものか…と、ずっと考えてきた。

大学の音楽理論の講義で、〈家にいる〉のが I の和音、〈出かけたい〉のがIVの和音、〈帰りたい〉のが V の和音だと頭の中で分類されたところで、「それは何故なのか?」「それが何なのか?」「もっと有効な説明があっても良いんじゃないか?」という思いは強くなるばかりだった。

「それが何故なのか?」について自分で考え始めたのは、卒業してずっと後だった。

自然倍音が、その手がかりになりそうだった。


つづく…
2016-02-04 02:23 | カテゴリ:クラシック音楽

前回は「自然倍音」についておさらいしました。

自然倍音

上の図をもう一度ご覧ください。
もうお気づきになったかもしれませんが、ハ長調(Cメジャー)の主和音ド・ミ・ソは、第5までの倍音と一致します。

つまり、ドミソと3つのピアノの鍵盤を押さなくても、ひとつドと弾いただけで、ドミソの和音が「倍音として」微かに聞こえていることになります。

つまり、「明るい主和音」とは、主音が本来持つ倍音の「自然数で、端正」な関係に則っている音ということになります。

では、ハ短調(Cマイナー)の主和音、ド・ミ♭・ソはどうでしょうか?

長調との違いは、ミが♮(ナチュラル)か、♭(フラット)かです。

さて、残念ながらこのミ♭は、主音ドの上の自然倍音列の中には、登場しません。
つまり、主音に対する「自然数で、端正」な関係ではない音ということになります。

このミ♭が、本来ドが持っている、明るい倍音「ミ♮」と衝突し、打ち消してしまいます。

その結果、長調のド・ミ・ソが「クリアで明るい響き」であるのに対し、
短調のド・ミ♭・ソは「マットで暗い響き」となります。

さて、今度は音階についてです。
ハ短調の和声的短音階は、ド・レ・ミ♭・ファ・ソ・ラ♭・シ・ド…ですね?

ミ♭だけでなく、ラにも♭がついています。

これは何故でしょうか?どうして♮ではダメなのでしょうか?

少し考えてみた結果、答えっぽいのが一つ思いつきました。

つまり、ラ♮だと、その倍音のミ♮がクリアに主張してしまい、ハ短調のマットな世界観がぶち壊しになってしまうのです。

あくまで個人的な推察の一つなので、他にも理由はあるとは思いますが、当たり前と受け止めてしまっている音楽の決まりに対して「なぜ?」と問い、考えてみると、案外ちゃんと理由はあるのだなあと納得してしまいます。

次回、自然倍音と和声について。

つづく
2016-02-04 01:29 | カテゴリ:クラシック音楽

皆さん、ちょっと昔を思い出してみてください。

学校。音楽の授業の前後、もしくは合唱の練習の時間。

クラスに一人はいたのではないでしょうか。

「長調の曲をなんでも短調にして弾いて、皆の笑いを取る系」生徒。

そうですね、僕も笑ってましたし、勢いで弾いたこともありますが、今は何が面白かったのかよくわかりません。

さて、笑いの法則として、緊張からの弛緩という「落差」が生まれると、笑いが起こるというものがあります。

では、その「落差」とは何だったのでしょうか?

「長調は明るい、楽しい曲の音階」
反対に「短調は暗い、悲しい曲の音階」

という違いは、先生が一般的に教えることでもあるし、生徒も簡単に、理屈ぬきで感じることができるものだと思います。

でも、「それが何故か?」という理屈まで考える人、そしてその答えを見つける人というのは、学校の先生や、音楽大学生でも少数派だと思います。

その答えの一つに迫る前に、「自然倍音」について簡単におさらいしておきましょう。

自然倍音

上の図。基音のC2の音をボーンとピアノなんかで鳴らすと、その弦の振動数(周波数)は約65.4Hz(ヘルツ)なんですが、そこから実際出てくる音の波には、さらに色んな音の波が微かに上乗せされています。その上乗せの音が「自然倍音」です。

一番下の基音(65.4Hz)を鳴らした時に、その弦の振動の2倍(130.8Hz)、3倍(196.2Hz)、4倍…と、整数倍された音も、聞こえるか聞こえないかの音で鳴っているということです。

低いドの音だけを弾いたつもりでも、その上のドだったり、ソだったり、ミだったり、果てはシ♭や、ファ#に近い音まで、人間には無意識に聞こえているのです。

倍音を意識して聴いている人というのは、ほとんどいません。
しかし、多くの人が、ちゃんと聞いているのです。

それはまるで、鶏肉に振りかけられた、ほんの少量のスパイスやハーブのように。
鶏肉の味は変わっていなくても、鼻に抜ける香りで、味の印象は大きく変わります。

倍音の如何が、大きく音の「印象」に影響するのです。

つづく
2016-02-02 01:05 | カテゴリ:アニメ音楽

『Q』のBGMには、ピアノ曲が多い。

中盤でのピアノの演奏シーンがとかく強烈だが、その前後でもBGMとして多く使われている。
オケとコーラスの分厚いサウンドも魅力的だが、ピアノパートが、シンプルながら、なかなか多くを語っている。
今回は、その中でも静かな曲を中心にとりあげよう。

前半。初号機が今はヴンダーのメインエンジンになっている、というリツコの説明シーンと、ガラス(アクリル?)板ごしにアスカとの対面を果たすシーンの2曲は、短調のピアノ曲だ。第一印象として、「旧エヴァっぽくないな」というのがあった。

そして、ぜんぜん激しい曲ではないのだが、なんとなく不穏で、イライラさせる。
その場のメンバーの、何をどう話していいか分からず、ピリピリしている雰囲気を、音楽からも感じる。
(『破』の和やかな空気感はドコへやら…)

説明も的を得ず、とっても居心地が悪く、「なんか違くね?」という違和感が膨らみきったところで、アヤナミの声が聞こえ、Mark.09の襲撃がある。

この襲撃時の『Out of the Dark』はとても緊迫感があってドラマチックで、カッコ良いのだが、どこか安心感がある。不思議だ。

シンジとともに、視聴者は「ココは間違っている、いるべき場所じゃない」と確信し、かつての親しき人々に背を向ける。
英語の歌詞は旧約聖書の創世記っぽいのだが、「this was his heaven」(ここは彼の楽園だった)という歌詞が印象深い。

…さて、話を戻そう。

シンジの新ネルフ探検シーン。とても殺伐とした風景で、旧劇場版の後かというほど荒れまくっている。
なんとなく、『風の谷のナウシカ』のオープニングのピアノを連想した。伴奏の音型と和音のせいだろうか。

でもメロディが興味深い。ベースも最初は動かないが、フレーズ後半でむくっと起き上がり、そして二度寝する。

何かを探して彷徨っていて、「あ!向こうにあるかも!」と思ったけど、もうそこには何も残っていなかった、というような感じがする。

(この曲、第13号機に搭乗する前、カヲルが説得するシーンでも流れているのだが、ストリングスにアレンジされているし、雰囲気もかなり変わっているのが面白い。悲しみと失意の中の、かすかな希望の光が一粒。静謐で聖なる雰囲気が漂っている。)

そして、カヲルとシンジが星を眺める時の曲。あれは個人的にお気に入りです。
とてもピアノの特性を活かした音楽です。
冒頭は、ファソラシ(♮)ドレミファの音がペダルで混ぜ合わされています。
「リディア旋法(スケール)」ですね。

(似たような印象を受けるピアノ曲として、スクリャービンの「前奏曲(Prelude) op.16-1」がふと思い出されます。
空間的、時間的にとても広い音楽です。)

また、その直前のシーンの、日が暮れて染まりゆく空を見上げて「…暗くなって来たね」というつぶやき。
このシーンで、和音がちょっと切なくマイナーになるのが素晴らしいですね。

シーンに、美しく調和しています。映像と音がシンクロすると、それにひっついて風や温度、匂いまで感じられるようになります。

新劇場版は、本当に、映像だけでなく、音(音楽、効果音、演技)にトコトンこだわっているなあと感じます。

2016-02-01 01:50 | カテゴリ:読書

『ノルウェイの森』の中で、主人公たちがフィッツジェラルド著『グレート・ギャツビー』を好評価していたのを思い出し、どうせ読むなら村上春樹の訳で、と勢いでポチり、届いたその日に読んだ。

村上春樹が生涯で最も影響を受け、大切にしてきたという『グレート・ギャツビー』。

それを訳すために、己が熟すのを数十年待ったと言うだけあって、並々ならぬ情熱を感じた。
(訳者あとがきは、本編を読み終わってから見た。)

原作は1925年のアメリカの長編小説。村上が読み手に時代差を感じさせないように尽くし、2006年に発行したこの本は、これからも多くの日本人に、新鮮な感動を与え続けるだろう。

…と言えるほど、実は筆者は文学に詳しくないし、大した読書家でもないのだが、とにかくそういう感想を持った。

この原作が、これまで幾度と無く映画化されている、というのは知っていた。
3年前のディカプリオ主演の最新の『華麗なるギャツビー』の映画予告は覚えている。
しかし、見たことはない。勝手に、「ああ、アメリカのかつてのチャラチャラした時代の、例の派手派手したやつね」とか「なんでこんなに映像化されてんのかね、売れるのかね」などと思ってしまっていた。

しかし、読んでみて納得した。
この物語を、文章を映像化するというチャレンジは、きっと監督にとって腕の見せ所であり、とても魅力的なものなのだろう、と。

まず第1章、ブキャナン邸の、あの光り輝く鮮烈な描写は、今まで読んだことのない類のものだった。
モネやルノワールの印象派絵画に、ラヴェルの精巧さを加えたような。

『ノルウェイの森』でも、主人公は語り手として、周囲の様々なことを鮮明に、事細かく、そして読書家らしく述べ続けるのだが、『グレート・ギャツビー』の主人公もまた凄い。

常に眼にスローモーションカメラを搭載していて、その映像に自分でオーディオ・コメンタリーして行くのだ。

そして眼に写ったある物体に対して説明するとき、その物体が何を考えていて、どこから来て、どこへ行くのか、ということまでいちいち考えてから述べているのだ。

こうした描写を、小道具や大道具の一瞬の映像で見せるとしたら、どれほどの計画と試行錯誤が必要なのだろうか?

俄然、映画が見たくなってきたが、へんに期待してしまうのも逆に怖い。

マルチメディア化するのは商売の簡単な手法の一つであるが、芸術的には困難なものだ。

約100年前のアメリカがどのような空気感で、100年前の原作の英文の筆致がどんなに素晴らしいものであるのかは、素人の自分には判りかねるが、少なくとも『グレート・ギャツビー』の世界の輝きと暗闇を、鮮やかな日本語で描き、己の宿命的な仕事に立ち向かい、やり遂げた村上春樹に、ここで密かな賛辞を贈りたい。


(実は本は中古で手に入れた。状態は悪くなかったが、本の間に2008年もののタリーズコーヒー(東京アントレ大森店)のレシートとナプキンが挟まっていて驚いた。こういう不思議な推測を生むささやかなサプライズを用意してくれた前の持ち主または古本屋に、感謝したい。)
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