2016-02-01 01:50 | カテゴリ:読書

『ノルウェイの森』の中で、主人公たちがフィッツジェラルド著『グレート・ギャツビー』を好評価していたのを思い出し、どうせ読むなら村上春樹の訳で、と勢いでポチり、届いたその日に読んだ。

村上春樹が生涯で最も影響を受け、大切にしてきたという『グレート・ギャツビー』。

それを訳すために、己が熟すのを数十年待ったと言うだけあって、並々ならぬ情熱を感じた。
(訳者あとがきは、本編を読み終わってから見た。)

原作は1925年のアメリカの長編小説。村上が読み手に時代差を感じさせないように尽くし、2006年に発行したこの本は、これからも多くの日本人に、新鮮な感動を与え続けるだろう。

…と言えるほど、実は筆者は文学に詳しくないし、大した読書家でもないのだが、とにかくそういう感想を持った。

この原作が、これまで幾度と無く映画化されている、というのは知っていた。
3年前のディカプリオ主演の最新の『華麗なるギャツビー』の映画予告は覚えている。
しかし、見たことはない。勝手に、「ああ、アメリカのかつてのチャラチャラした時代の、例の派手派手したやつね」とか「なんでこんなに映像化されてんのかね、売れるのかね」などと思ってしまっていた。

しかし、読んでみて納得した。
この物語を、文章を映像化するというチャレンジは、きっと監督にとって腕の見せ所であり、とても魅力的なものなのだろう、と。

まず第1章、ブキャナン邸の、あの光り輝く鮮烈な描写は、今まで読んだことのない類のものだった。
モネやルノワールの印象派絵画に、ラヴェルの精巧さを加えたような。

『ノルウェイの森』でも、主人公は語り手として、周囲の様々なことを鮮明に、事細かく、そして読書家らしく述べ続けるのだが、『グレート・ギャツビー』の主人公もまた凄い。

常に眼にスローモーションカメラを搭載していて、その映像に自分でオーディオ・コメンタリーして行くのだ。

そして眼に写ったある物体に対して説明するとき、その物体が何を考えていて、どこから来て、どこへ行くのか、ということまでいちいち考えてから述べているのだ。

こうした描写を、小道具や大道具の一瞬の映像で見せるとしたら、どれほどの計画と試行錯誤が必要なのだろうか?

俄然、映画が見たくなってきたが、へんに期待してしまうのも逆に怖い。

マルチメディア化するのは商売の簡単な手法の一つであるが、芸術的には困難なものだ。

約100年前のアメリカがどのような空気感で、100年前の原作の英文の筆致がどんなに素晴らしいものであるのかは、素人の自分には判りかねるが、少なくとも『グレート・ギャツビー』の世界の輝きと暗闇を、鮮やかな日本語で描き、己の宿命的な仕事に立ち向かい、やり遂げた村上春樹に、ここで密かな賛辞を贈りたい。


(実は本は中古で手に入れた。状態は悪くなかったが、本の間に2008年もののタリーズコーヒー(東京アントレ大森店)のレシートとナプキンが挟まっていて驚いた。こういう不思議な推測を生むささやかなサプライズを用意してくれた前の持ち主または古本屋に、感謝したい。)
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2016-01-31 01:50 | カテゴリ:読書

ふと思い出したように、『ノルウェイの森』を読んだ。

2年ぶり2回目。

空気感はかなり覚えてるし、読み進めると記憶が「ああ、これ知ってる」と言ってくる。

でも、とても新鮮に読むことができた。
時系列が頻繁に錯綜するあの小説は、おおまかなストーリーが解っていても、頭で話の流れを記憶することが難しいのもあるだろう。

そして、巷で噂の村上春樹の作品に初めて触れた2年前の1回目よりも、より良さがわかった気がする。

1度目は、「うわなんだこの文章まわりくどい」「なんだこの主人公、受動的すぎ」「描写がいちいちくどい」などと、特徴が全て個人的な苦手意識に直結していたのだが…

2回目は、むしろそうした特徴的な描写を、肯定的に、舐め回すように、共感し、心で反駁しながら読み進めた。
「自分も、いろいろ失っていく中で、変わってしまったんだな」と、しみじみ。

さて、村上春樹の作品の中には、実在の著書や絵画、クラシック音楽、ジャズ、ポピュラー音楽の題名がイヤというほど登場する。『ノルウェイの森』も然り。

まず題名からしてそうだ。The Beatles のNorwegian Wood。この楽曲は、作中で何度か登場する。

しかし、個人的にはこの楽曲と、この作品の空気感は、頭の中でちっとも一致しない。

代わりに、この作品の中に立ち込めている空気感を表した音楽として、個人的に挙げるのは、
ブラームスの『交響曲第4番 ホ短調 作品98』だ。

まずこの交響曲は、作中のわりと序盤に登場する。
主人公との「直子」のデートで、その演奏会を聴きに行く、というもの。

…しかしこれは実現されない。この未遂そのものが、その後の展開の暗示のように思えてならない。

そしてこのホ短調の第1楽章の、秋の感傷性を思わせる空気感が、作品の情緒に合致している気がする。

人生の一番輝かしい時期が過ぎた後の、喪失感を孕んだ、最も美しい時期。



作家自身は、やたらとあちこちでシューベルト(特にピアノソナタ第17番D.850)を、まるで我が娘のように推してくる。
繊細というより敏感に過ぎる描写や、読後のなんとも言えないモヤモヤ感などは、シューベルトにとても近いと思う。そして、『ノルウェイの森』の主人公ワタナベやその他の登場人物が抱える、救いようのない「疎外感」「虚無感」は、シューベルトの持ち味の一つだ。

しかし、ブラームスのような、長々と説明して、「大きくなったらいずれ分かるようになるから、長くなるかも知らんが、わしの話を聴いておきなさい」という態度や、「循環形式でテーマを忘れたころに、それとなく示しておいたから、それが分かるまで聴きなさい」という姿勢のようなものは、シューベルトにはあまり見受けられない。



主人公ワタナベは読書家で、作家と同じく、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を愛読している。

ちょうど今、その村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』を読み終えたので、次回レビューしたい。


(ちょっと最近、脳がインプット型になっているため、記事に今までのような一貫性と完結性が無くなっています。ご了承下さい。)