2016-10-15 14:40 | カテゴリ:クラシック音楽

ブルックナーの交響曲第4番(変ホ長調「ロマンティック」)を聴きながら、ふと紙と鉛筆を取り出し、整理してみた。


①まず1次元。「線」の世界だ。

そもそも円周の長さが「直径×円周率」というのが気に食わない。

面積も体積も「半径r」を使うのに、なぜ最初の一歩、円周で直径(2半径=2r)を使うのか?

そこは、半径rを独立させ、そのかわり円周率3.14…を二倍した「6.28…」を「真の円周率」としたほうが良いのではないか?

そうすると円周は、「半径×真円周率(6.28…)」ということになる。



②次に2次元。「面」の世界だ。

「半径×半径×(3.14…)」が一般的。

ここで真円周率(6.28…)を使うと、「半径×半径×真円周率(6.28…)×1/2(二分の一)」となる。


③次に3次元。我々の生きる「空間」の世界。

前編でも述べたが、「半径×半径×半径×(3.14…)×4/3」が一般的。

ここで真円周率(6.28…)を使うと、「半径×半径×半径×真円周率(6.28)×2/3(二分の三)」となる。



…字面だけでは分かり辛いので、以上を手描きでまとめよう。

円周率と真円周率

…いかがだろうか?
右と左、どちらが「音楽的」で美しいかは、一目瞭然だと思う。

そして、このパターンだと、第4次元球や、第17次元球の体積だって、なんとなく想像がつきそうな予感がしてくる。

何より、真円周率を使った場合の、
「1(=1/1)」→「1/2」→「2/3」→(そしてきっと「3/4」→「4/5」)…

という係数を、比の値として捉え、

「1:1」→「1:2」→「2:3」→「3:4」→「4:5」…

というふうに変換すると、これはもはや僕の目には、音楽の音程を決める弦の内分の比にしか見えないのであって、つまり

「純正完全1度」→「純正完全8度」→「純正完全5度」→「純正完全4度」→「純正完全長3度」…

という「響きが聞こえてくる」ものとなる。

ブルックナーの長大な交響曲を支える、親しみ深さを湛える主題旋律(下記YouTube動画の2:30から始まる、下降旋律がこの曲の骨である。)にもまた、これが感じられる。
ブルックナーの交響曲第4番

「宇宙の根源は紐である」という「ひも理論」、オイラーの公式、宇宙物理学の「特異点問題」というのも、何となくスッポリこの響きの中に収まりそうな気さえしてくる。


しかし、子どもたちが学校で習う「円周率(3.14…)」では、それを阻むばかりか、わざわざ歪めているのだ。

おわり

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2016-10-15 13:13 | カテゴリ:クラシック音楽
小学校時代。
ある日突然、円周と円の面積を求めるために出逢う、3.14…という数字。

僕は正直、こいつが気に食わなかった。

宇宙の深淵と神秘を背負うにしては、なんか見た目的に、生理的に、受け付けなかった。

この3.14…という数字。


中学の数学からは半径r、円周率「π(パイ)」と名を改めるので、それほど気にならなくなるが、再び気になるのは「球の体積」を求める時だ。

「4/3 πr3(身の上に心配アール参上)」とかいうふざけた語呂で憶えさせられる「球の体積」。

「いや、球だぞ?」と。「何だよ3分の4って。いきなりどうした?」

1次元の円周が「2πr」、2次元の円面積が「πr2乗」なのに。

三次元になったら、なぜ「3分の4」πr3乗になるのか。

全くもって、奇怪だった。
「世界は、歪められている」という、漠然とした認識を持った。



そんなモヤモヤした霧を晴らしたのは、大学卒業後に聴いた、ブルックナー作曲の交響曲の、第一主題だった。


つづく。


2016-05-17 02:50 | カテゴリ:クラシック音楽

このブログはどうも研究分野が「音響」寄りになってしまっているので、ここは一つ、大きく舵を切って「拍子・リズム」について考えてみることにする。

最初のテーマは「8分の6拍子」系についてだ。

ポップスやジャズ、ロック、クラシック音楽では「4分の4拍子」がほとんどを占める。
基本中の基本というべきか、なぜか音楽においては、4つで1セットという、言わば「常識」がある。
4分音符4つで、一小節の「全音符」となるし、メロディーは4小節で大きな1セットになる場合が多い。

しかし、8分の6拍子は、1小節が「3つセット」×2からなる拍子だ。
8分の12拍子は、「3つセット」×4となる。
こういう言い方をするとなんだか複雑な気がしてくるが、実際にその拍子で書かれた曲を聴いてみて、複雑に感じる人はいないだろう。…むしろとても自然な感じで、くつろげる。

ケルト系の民族音楽に多いし、クラシックでも、「舟歌」といったものや、ダンスミュージック、「タランテラ」といったもので頻繁に見かける。ポップスでは、中島みゆきの「時代」などだろうか。

そしてなんとなく、個人的に、「人と自然が調和したような印象」を受ける。かつ、前進感がある。

これはなぜか?

本では答えが見つからなかったので、ひとり思索にふけっていた。
そしてある日、そんな思索をやめかかっていた頃、人気のない地下鉄駅を歩いていてハッとした。

「足音だ」

構内に響く自分の足音、まさにこれが8分の6拍子の特徴を呈していた。
人間の、靴音。
右足を踏み込む音。コレが第1拍目。そして2拍目が休符。3拍目は、左足のかかとの着地音だ。これで1セット。
そして左足の踏み込む音。コレが次の第1拍目。再び2拍目が休符。そして3拍目は、右足かかとの着地音。これで2セット。…あとはこの繰り返しである。

皆さんも是非、試してみて欲しい。少し歩くのが楽しくなるのではないだろうか?

「歩くリズム」の音楽として「行進曲(マーチ)」が代表格として挙げられるだろうが、行進は「自然」ではないし、実際つかれる。

8分の6拍子を聴くときに感じる自然な前進感の印象は、人の体に染み付いた、ヒト独特の「自然な歩行のリズム」に由来するのかもしれない。
2016-03-15 05:10 | カテゴリ:クラシック音楽

このブログは自然倍音の話しかしないのか?

このブログ書きは、自然倍音フェチなのか?

…と思われても仕方ないくらい、自然倍音について触れてきた。

ただ、何度も、いろいろな面から触れて、ようやくたどり着ける話題というものもある。

今回はまさに、そういう話題だ。

スクリャービンの「神秘和音」と「自然倍音」の話。

Q1…「神秘和音」とは?

A1…スクリャービンが中期後半〜後期〜晩年の作品において多用した和音の一種のこと。
op.58〜64などは、曲中のほぼ全てが神秘和音(とその移置形、転回形)だけで書かれている。
(↓ドを根音とした時の神秘和音)
神秘和音

Q2…いつどうやってできた?

A2…本人は『交響曲第5番 プロメテウス-火の詩-op.60』で初めて意識的に使用したこの和音を、「プロメテ和音」などと呼んでいた。その和音について

「自然倍音から音を取り、4度関係で積み立てよ!」とスクリャービンが言った

…というのは昔からあちこちに書かれていることだが、実は神秘和音の構成音が「自然倍音に則っている」というのは、スクリャービン自身、音響学者からの指摘によって気付かされたことらしい。
つまり彼は、いつの間にか無意識的にこの和音を開発し、長い間、根拠もなく使い続けていたのだ。


さて、しつこいようだが、ここで自然倍音列を見てみよう。
自然倍音

何度もこの図を用いてきながら、ここで一つ重要なことを付け加えておくならば、この「自然倍音列」の音は、現代の平均律(一般的なピアノの調律法)の音とは微妙にズレがある、ということだ。特に、上の倍音では、実際のピアノの音よりわずかに低い音になる。

Q3…スクリャービンはピアノ曲が専門領域だったので、このズレには鈍感だったのか?

A3…どうも、そうではなかったようだ。「プロメテウス」はオーケストラ作品なので、ピアノと違って各楽器が微妙な音程を決められる。スクリャービンは、オーケストラのリハーサルの際、「ファ#の音程は少し低めにとってくれた方が透明感が増す気がする」みたいなことを言っていたらしいので、自然倍音に対する無意識的な志向は持っていたのだろう。

しかし、である。上の神秘和音と自然倍音列を見比べて欲しい。

何か重要な音が抜けている…そう、主音からの第5音「ソ」の音が、省かれているのだ。
ソは第3倍音、第6倍音、第12倍音と、何度も出てくる重要な自然倍音にも関わらず…である。

Q4…これはなぜか?

…これに対しての明快な解答は無いが、研究者の一般的な認識として「第5音は変位して増4度音になったから」というものがあるだろう。

どういうことかというと、中期(op.32〜57)作品においてスクリャービンは、後の「神秘和音」と同じ構成音の和音を、「属九第5音下方変位付加6」として使っていた。ドミソ[シ♭]レの第5音ソが下方変位してファ#になってしまったので、ソが消えたということである。

しかし、個人的には、

「ソが邪魔だったから」

という説を新たに主張したい。

…わかっていただけるか不安だが、ピアノで神秘和音を弾いてみると、ソは「弾かなくても聞こえる」のである。
根音の第3、第6倍音として、かなり明瞭に。

そこへあえてソを加えて弾いてみると、せっかくの「神秘和音」の透明さ、神聖さが、失われてしまうのである。


「聴音課題」に取り組んだことのある人は、もしかしたらこの「魔のソ」に苦しめられたことがあるかもしれない。
①先生がピアノで和音を弾いていく。
②生徒が、音だけで和音を判別し、楽譜に音符を書いていく。
③先生は「ドドミド」と和音を鳴らす。
④生徒は「ドドミソド」と書き取る。
⑤答え合わせでバツをつけられるが、生徒は「だって聞こえたもん」という。

…僕自身、よくこういう魔のソに苦しめられたし、音大の試験官も、きっとバツをつけるのがためらわれる案件だろう。

これを克服するには、逆に耳をふさいで、理論的に正解を導かなければならない。(聴音課題なのに)

…ということで、「ソが邪魔だった説」は、大いに理にかなっているのではないか?


(ここでスパっと終わりたいところだが、残念ながら最晩年の彼のビッグプロジェクト「神秘劇」の骨子では、「ソ」の音が加えられていた可能性が高いことを付け加えておく。あくまで「自然倍音列」にこだわりたかったのだろうか?「微分音」の使用も考慮に入れていたらしい。)
2016-03-14 12:22 | カテゴリ:クラシック音楽

さて前編の続きです。

Bar「Radio&Records」の隅のソファー席のブース。男4人が向かい合い、西洋音楽史を見た時の、「自然倍音列」に沿った「和音の重積化」が、なぜ?どのようにして?起こったのか、その根拠の議論となりました。
(各人の身分、主張は、回想によって多少歪曲されていますが、悪意はありません。)

まず、前編の話を一通り終えた後、

「なぜ古い時代には「和音」がなく、ようやく近世になってやっとドミソ程度の単純なものだったのか?」

という議題が自然に持ち上がりました。

音響に詳しい作曲家肌の学生が、最初に言います。

 「当時の人間の、音の認知・処理能力が未発達だったからだ」

 「そういう主張も本に書いてある。」

別の作曲家の先生は、それは一理あるかもしれないと、ひとまず反論も賛成も飲みこむ。

しかし、演奏家肌の僕はひとまず同調せずに、この主張には真っ向から立ち向かわねばならない気がしたので、先輩として偉そうに噛み付いた。

 「それは、あまりに根拠に乏しい決めつけではないかね?」

僕は作曲において、モダンなイレブンス・コードを好むし、何よりラヴェルの和音やスクリャービンの「神秘和音」を好き好んで演奏する。しかし、だからといって、バッハやベートーヴェンの音楽を聴いて、弾いて「物足りない」と感じることはないからだ。
そこであえて、真っ向から対抗するアンチテーゼをぶつけることにした。

 「僕はむしろ、その逆だと思うね。…つまり、昔の人のほうが耳は鋭敏で、聴覚の認識能力も高かった。そのせいで、自然倍音もかなり意識的に聞こえていたのではないか?」

 「ドと鳴らしただけで、微弱ながらもドミソ♭シレ#ファラまで自然倍音が聞こえてしまう。そこにテンション・コード(音のいっぱいある和音のこと)を実際に鳴らすことなんて、不必要だったし、極めてうるさく感じるのではないか?」

…我ながら極端な反論だなと思ってしまったが、とりあえず場の話の指向性は均衡になり、冷静に各々が再び思索する。

僕は言う。

「現代人のほうが、むしろ自然倍音に対する認識力が下がっている。だから、実際にテンション・コードを鳴らしてくれなきゃ、満足できない身体になっているのでは?」

 「人間の脳と耳の基本レベルが変わっていないのに、自然倍音への認識力にここまで差が出てしまった要因とは?」

作曲の先生が言う。
 
 「社会だ。環境の変化だ。」

これには、一同頷く。
「現代人は雑音に囲まれすぎている。」
「人工音、電子製品の唸るモーター音…」
「静寂の中で耳を研ぎ澄ますなんて姿勢から、あまりにも遠ざかっている」
「そのあふれる雑音を脳で無意識にカットすることに、慣れすぎてしまったのではないか?」

最初の学生が言う。
 
 「大型ショッピングモールとか、酷いもんですよね。」

…「確かに」。一同頷く。

(僕はこの時、「音の三角コーナー」という言葉が頭に浮かんだが、そこは食事の席でもあったので口をつぐんだ。)

「昔に騒音がなかったということは無いだろう。ヨーロッパの都市では、石畳を走るウマの蹄鉄の鋭い音が、けっこうな苦情のもとでもあったらしいし。」

「現代音楽が音響的に、多くの耳にとって厳しくなったのは、第2次産業革命以降、電気が生まれ、都市化が進み、そしてガスタービンエンジンやジェットエンジンなど、ゆうに120db(120デシベル。人間が正気でいられる限界点)を突破する音が身近になってからだね。」

「…」

このようにして、音楽を人生の礎とする者達は、人類史と音楽史の符合を再認識し、これからの社会と音楽のありかたをそれぞれ考え、それ以上を言葉にすることなく、議論は終わった。


おわり。